湊かなえ『母性』−母も娘もまた「娘」−
”母性”について考えたことはあまりない。
母親の立場にならないとわからないことだと思っていたから。
女性が好きな男性のタイプで「母性(本能)をくすぐられる人」という人をテレビでよく見かける。
僕にとって”母性”とは、何かと面倒を見たくなるといった意味で捉えていた。
生まれつき備わっている性格としても言えると思うが、明確ではない。
しかし、『母性』を読んでからは、その意味ははっきりと輪郭を表した。
話は変わるが、僕は、母親に何かをして欲しいなどと思ったことがない。
愛して欲しいだとか、大切に育ててとか、母親に喜んでもらうための行動などしたことがない。
自分が頑張った結果、母親に褒められることで喜ぶことはあった。
テストでいい点を取って、母親に見せる。褒められたいから頑張ったのではなく、頑張ったから褒められる。褒められなくても別に良かった。
僕は、自分のためにすべてやってきた。他人のためにやっても自分には返ってこないと思っているから。自分のためにやっていることが、他人のためになるとさえ思っていた。
母親の誕生日にプレゼントをあげることは、当たり前。見返りを求めるといううより感謝のほうが大きかっただろう。
なぜ自分は母親に愛されたいために生きないのかと考えてみる。
もちろん、母親のことが嫌いではない、大好きである。
それでも、母親のために生きるとはならない。
漠然と思っているのかもしれないけれど、優先的ではない。
結論からいうと僕には”母性”がないのかもしれない。
小説の中で「愛を求めようとするのが娘であり、自分が求めたものを我が子に捧げたいと思う気持ちが母性なのではないだろうか」とある。
愛されているなと思うことはある。
毎日ごはんを作ってくれるし、帰りが遅いと心配してメールをくれたりする。
これが一般的にいう母性という機能である。
『母性』の中で、母親(ルミ子)がうまく娘を育て、愛してあげられなかった理由は、母親(ルミ子)自身が死んだ母の娘で居続けたからである。そうすると、母親は常に愛を求める。死んだ母親に愛を求められない。とすると、娘に矛先は向くが、ルミ子が母に愛したようには愛してはくれない。見返りがないのである。
目に見える愛を感じなければ、宗教にのめり込む一因になるのかもしれない。
実際、ルミ子は宗教関連の詐欺にあい一旦は離れるが、その後も宗教活動をしている。
”母性”があればいい子を育てられるわけではない。
むしろ”母性”こそがそれを邪魔しているのかもしれない。
大切なのは、親の娘から卒業して母親になれるかどうかである。
いい子とはなんだろう。母親に付き従いうことだろうか。どんな人にも優しくして、いい子だね、いい子だねって言われることだろうか。
それはいい子でもなんでもない。母親の代わりでしかない。母親は子になってはいけない。自分が親にして欲しかったことを、押し付けてはいけない。
母親がいなくても生きていける。母性を必要としない。
それが「いい子」だと僕は思う。